再開、再考、再構築、8日目

長井真理さんの本で自分の勘違いに気づいた私は、まずはデカルトの『方法序説』と『省察』を読み直した。実はその時、もう一人の哲学者ベルクソンも読みたいと思っていた。こちらは岸見先生にすすめていただいたという理由からだ。岸見先生がなぜベルクソンをすすめてくださったのか、その理由は定かではないが、先生はいつも相手の話を聞きながら、そのなかに出てきたことに関連性があってその人が興味を持ちそうなものをすすめてくださるので、きっとその時の私が話した何かでいいと思ってくださったのだろう。ベルクソンは読みたいと思っていたがなぜかすぐに取り掛からなかった。でも気になっていたので、ある時ベルクソンの有名な本『時間と自由』のほかにはどんな本があるのだろうと思い立ち、ネットで検索してみた。その時に興味を引いたのは、少し変わった長い題名の『意識に直接与えられているものについての試論』という本(読み始めてほどなく『時間と自由』はこの本の英語版だったと知る)。そこからやっとベルクソンを読み始めることができた。そして、読み始めてすぐ、非常に面白い本だと思った。特にどこがかといえば、「私たちは質的なものを数字などの量で測ることを知らず知らずにやってしまう」というところ。本当は測ることができないのにできると錯覚している。この、できないのにできると思ってしまう錯覚というのは私の中のテーマの一つでもある。それをベルクソンが論理的に語ってくれていることに非常な喜びを感じた。でも読み進めているうちに、これを理解するにはカントをどうしても読まなければならないことに気づき始めた。ベルクソンが語っていることの根底にカントの思想があるのでそれを知らずに読み進めてしまうことに抵抗を感じ始めたのだ。この抵抗感のせいで、私には今読んでいる本から大きく外れていく癖がある。勝手にこれを参考文献の旅と呼んでいるのだが、これが始まってしまうと、次の本からも、そのまた次の本からも、どんどん逸脱していくので、しまいにはいつ元の本に戻ってくるかわからなくなる。考えてみれば長井真理さんも3年かかってようやく戻ってきた感がある。今回もベルクソンからはそんなに離れませんようにと心の中で祈りながらカントの旅が始まった。

今一度このブログのテーマに戻ってみると、このホームページを書き始めた経緯について書こうと思っていたこと。それは実際に行動の起こるメカニズムを探求したいという目的のためでもあった。今カントのことを書いているのもそのことに繋がっているからなのだが、カントの内容もさることながら、それよりもカントの読書は私の日々の生活スタイルを大きく変えることになった。夜型から朝型へ、それは私にとって生まれて初めてともいえる習慣でいつも変えたいとは思っていたがどうしても夜型の生活から出ることができなかった。仕事の時間帯のせいもあるが、私の怠惰な欲求のせいというのが本当の理由だ。つまり夜更かしと二度寝、これを改めることはきっと一生無理だろうとあきらめていた。それがこの度あまりにもあっさりと移行してしまったのだ。他にも、今の社会情勢の影響やいろんな学び、他社からの刺激の影響も大いに助けているのだが、とにかく一番大きな理由はこうだ。カントの本は私にとって疲れている夜の体力で読むのは無理だったということ。カントの文章はわかりやすいとは言えないし、文章がわかってもその内容を理解しているわけではない。数行読んで何となくわかったようなきがすると、ふっと意識がよそへ行ってしまい違う考え事をしている自分がいる。座っているとこのような状態がほとんどで、そうじゃないときは眠くなる。仕方がないので立って読むことにした。そうすると集中力はまだ続くようになったのだが、体力を余計に消耗する。気づいたら夜のクラスやセッションが終わった後に読書をする気がしなくなり、遅くまでおきていても無為に過ごすようになっていた。

静かで誰にも邪魔されない夜の時間は読書に最適。という私の中の思い込みは刷新されることになる。カントを読むためには、気力と体力のある朝の時間を増やさなければ。そこから私の本格的な朝型生活が始まることとなる。

 

2020.5.25 am8:06

 

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