再開、再考、再構築、9日目

朝型の始まりの理由はカントを読むためだった。でも実はそこへの移行はもう少し前から始まっていたのだ。私のところへ来ているコーチングの受講生とクライアントの早起きの習慣が私への刺激となって少しずつ私の中に早起きの必要性のアンテナが立ち始めていた。それまでは仕事の予約が10時がスタートだったらその5分前に到着するようなギリギリのスケジュールだったのだが、何も入っていなくても9時にはオフィスに到着するようになっていった。さらにそのころちょうど自転車がパンクしてしまい、すぐに直せない状況だったので、仕方なくしばらくの間は徒歩でオフィスまで行くことにした。その仕方なく歩くということが私にはとても良い効果を与えたようだ。他に手段がないのであきらめて歩こうという決意をした私は、さらに徒歩なので早めに家を出るために移動時間をかなり多めに考慮するようになった。それまでは遠くの場所に移動するとき以外、つまり家の近所のオフィス(自転車だと約5分、徒歩だと15分)への移動だとほぼその時間は無視されることになるので、いつも気が付くとギリギリの時間であわてて自転車を飛ばす羽目になる。そして到着してすぐに次のことが始まるという全く隙間のない時間の使い方になっていく。ただ、こういうことは毎日ではないしオフィスに到着してしまえばその日の二つ目からの予定の仕事との間には時間があるので時間だけに注目すればすべての時間がそうなってるわけではないはずだ。でも、きっとそれだけでは表現しきれないものが何かあるのだろう。自転車移動の時とは何かが大きく変化したように感じたのだ。それもなにか根底から変わったような感覚。時間の流れ方なのか私の感じ方なのか。歩くようになってから、私はふと、人は日常の移動スピードもしくはその目的や手段またはもっと総合的なものなのか正しいことはわからないのだが、日常の中に存在する「移動」というものがなにか時間の感覚にも大きく影響を与えているのかもしれないと思うようになった。というのも、私の場合、まず家からの自転車移動の時は、到着してから少し休めるような隙間時間をとるという考えがまるで浮かばず、移動からすぐに次の目的に移行する感じがしていた。これは単に自転車が私にとっては移動手段という目的しかなかったからだと思うが、振り返ってみると、移動にかかった時間は事実として存在するはずなのに私の中の感覚からは抜けちてしまっているように感じる。自転車に乗ってる時の自分を振り返ると移動中の到着後のことを考えていることが多い。もちろん他の考え事もするが、気持ちはせわしなく次のことを思い、そして移動時間を尊重してないので当然時間的にも余裕がない状況の中、到着後のことを考えてイライラしている。これはまさに岸見先生が言われるキーネーシスに他ならないのではないか。つまり目的地から目的地へ移動する生き方だ。ではなぜ徒歩になるとこのような状態にならないのだろう?私の主観的な感覚でしかないが、歩くと決意した瞬間、何かが私のなかで変わった気がした。それは、なにか嫌なことに取り組まなければならないときなど、受動的な時は嫌々やるのだが、もうやるしかないとあきらめた時の感覚と似ている。諦めた瞬間楽しもうという気持ちが湧いてくる時のあの感覚だ。楽しむというニュアンスはそのときの状況によって様々だが、ネガティブからポジティブに一気に変わるあの感じ。実際、時間の取り方も、到着後少し休む時間も考慮するようになるし、私の中で歩く時間はほかの時間と同じような重要度で一日の中に存在するようになった。そうなるともはやその時間は、単なる移動時間というものではなくなる。

単なる移動時間で無くなるということは、すべてが同質のものとなるからなのか、一日の時間の感覚が流れるように一続きのものという感じがしてきた。単なる移動時間ということになると、その時間に価値を感じないので一日の時間がぶつ切りの寄せ集めのように感じるのかもしれない。ここでも言えることは、移動時間の時、私たちはその移動というものを「手段」として捉えると時間は量的なものになり、そうではなくそれをほかの時間と同じような価値を持つものとしてとらえると、それは質的なものとなり、主体性をもって人生の一部に取り入れられるのかもしれない。岸見先生があるとき「時間を量で測らなければ質的なものになり、質的な「いま」は永遠になる」というようなことを言われた記憶があるのだが、その時はよくはわからなかった。だが、いま「歩く」ということを通して少しだけわかってきたような気がする。

質と量、動きと時間、ということについてもさらに考えていきたい。

歩く時の感覚として、私の中でもう一つ重要な感覚がある。それは、出発するときの感覚で「おもむろに動き始める」という感覚だ。それは、「そのまま」とか「むき出し」のような感覚もある。何か、山がのっそり動き出すような、底知れぬ力を感じる動きなのだ。このことについてはまた別のところで考えてみたい。

 

2020.5.26 am8:19

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