再開、再考、再構築、7日目

長井真理さんの本で影響を受けたことについて書いておこうと思う。いまデカルト(そこから今はからカント)を読み返そうとしていることのきっかけは彼女の論文を読んだことでそれまで私が持っていたデカルトのイメージを思いきり覆されたことによる。まず初めに、彼女の文章に触れて感じたことから。そして経緯について。彼女その人から感じたことも書いておきたい。最初にかのじょの文を読み始めたとき、なんて賢い人だろうと思った。とても論理的で簡潔、それでいて冷たくない。思考が生きている感じ。思索プロセスがわかるのは、神谷美恵子さんの文章を彷彿とさせた。でも神谷さんの方はもっと感情が入っているように思う。長井さんは、感情が入ってないのに冷たく感じない。それは、彼女の論理が主観を抑えているというより相手への冷静な洞察に満ちているからかもしれない。そして適格な感じがするのは臨床に基づいた問であり考察だからか。それでいて、切り口は斬新で意表を突く感じがする。前回の終わりに、私にとっての第二の神谷さんと表現したのは、おもにこの文章を読んだときに感じた感覚による。これだけなら単なる共感、誕生日前日の記念、いい思い出に終わっていただろう。そうではなかった。この本の中には、私の今までの認識を大きく変えた考察が語られていた。それはデカルトのコギトの捉え方だった。デカルトは30代の初め頃に読んだと思う。そのころの感想は、昔の翻訳本にありがちな翻訳者によってえらばれたその時代の言葉の表現による説教くささだった。それとそのころたまたま目にしたデカルトの研究者が書いている現代における解釈で、デカルトは間違っているというイメージだけが私の中に残っていた。私が哲学書を読み始めたのも30代に入ってからで、しかも神谷美恵子さんの影響で読み始めたプラトンを読んだぐらいの状態だった。そのような人間がまったく哲学の素養がなく判断してる。しかもそのころの私は自分の考えを疑うということがまれだったし思い込みの激しい自意識だけが高かったったので、デカルトの姿勢は好きだったものの、彼の考えを古いものとし、それを歴史的な価値にしか思っていなかった。その頑固なイメージも、長井真理さんの文によって目を覚まさされることになった。その内容は木村敏氏の資料にも紹介されている。そこから少し抜粋すると、

~アンリはデカルトの cogito ergo sum の cogito が表象的思惟ではなく、《私には確かに私が見たり聞いたり熱を感じたりしていると思われる videre videor,audire,calescere,[中略]これこそ[われ思う]ということである》と書いているが、長井はこの videor(と思われる)がバンヴェニストのいう「中動態」middle voice,voxmoyenne であることを指摘。~日本医学哲学・倫理学会大会、木村敏氏資料 「「こと」としての生と死」より

さらに長井真理さんの「分裂病者の自己意識における〈分裂病性〉」という論文の中で、詳しく書いている。長くなるが一部を抜粋。

~デカルトは、さまざまなものの存在を否定するように自ら説得するという仕方で、さらには何かを思うたびに悪霊が自分を欺くという想定をすることによって懐疑を推し進めていたが、そのさい彼はこの疑うことと一体化していた。しかし、説得される私、欺かれる私、つまり疑われる私という視点が生じたときに、彼は一挙に確実性に達している。しかしこのことは、私が主体から客体に位置に転じ、客体としての私こそが確実な存在として現れるということを意味しているのではない。そうではなくて、疑うという行為の内部で同時に疑われるという視点が生じているのである。私は疑うと同時に疑われてもいる。最終的に確実だとされた私は、単なる能動的主体としての私でも、単なる受動的客体としての私でもなく、疑うことが同時に疑われることでもあるような行為、単なる能動でもなく受動でもないような行為の様態にかかわる限りでの「私」である。そしてこのような「私」こそが、言葉の真の意味での「主体(基体)sub-jectum)(下にあるもの、根底に横たわるもの)なのである。

このような能動でもなく受動でもないような行為の様態こそ、ほかならぬデカルトのいうコギト(cogito )を特徴づけ、またそのコギトの確実性の根拠にもなっている。デカルトのいうコギトは、単なる能動的な「私は思う」ではなく、私の様々な(能動的あるいは受動的様態の)行為━感覚すること、思惟すること、想像することなどなど━に伴う「・・・と思われる、と見える」ことを意味している。「…いま私は光を見、騒音を聞き、熱を感じる。これらは虚偽である、私は眠っているのだから、といえるかもしれない。けれども私には確かに見えると思われ、聞くと思われ、熱を感じると思われるのである。これは虚偽ではありえない」。この「(私には…と思われる、と見える」)を意味するラテン語videorの態は形式的には受動態であるが、もともとは中動態に由来している。[中略]しかし翻ってわれわれの素朴な日常的態度を反省してみると、むしろデカルトの到達した真理とはちょうど逆の事態が真実らしく適用してしまっていることにきづく。すなわち、われわれが目覚めていようが夢や幻覚を見ていようが、その時々に私の見たり聞いたりするものがほかならぬ世界のうちにあるということ、そしてほかならぬこの「私が」それを知覚したり為したりしているということこそが、すなわち上述の『…』内の能動態文で表されるような、通常の主・客関係の成立する事態こそが確実だとみなされている。しかもその際、われわれはいちいち「私には…と思われる」という言葉を付け加えたり、あるいは口に出さなくてもいちいちそう考えたりすることの馬鹿ばかしさを思えばおのずと明らかである。つまり、素朴な日常世界においては、デカルトのコギトの明証性━すなわち、「私には(…)と思われる」の私と思われる明証性━は成立せず、逆にデカルトが確実性を欠くとした、(感覚や行為の)対象の存在とこの対象に対して成立する私の存在━すなわち通常の主体・客体関係の成立、およびそれが成立している限りでの主体と客体の存在━にこそ第一の明証性があるように思われるのである。~

長井真理著 『内省の構造』「分裂病者の自己意識における〈分裂病性〉」岩波書店 より

 

このあと論文では、我々がこの馬鹿ばかしさを感じる感覚を自明性に内在する抵抗に由来するものというブランケンブルクの言葉を引いて、われわれの自明性の階層構造についての考察に入っていく。

ここで私がこの長い文章を引用したのは、ここで語られていたことこそが私の目を開かせ読書の方向を大きく変えたものだからだ。ここでいわれている「コギトこそが中動態だった」という考察と、さらに私自身も陥っていた罠に、デカルトの思想を読んだ多くの哲学者たちもまた陥っていたのではないか。ブランケンブルクのいう「自明性に内在する抵抗」にあい、デカルトが危惧していたやり方そのもので彼の文章を理解していたのではなかったか。これほど私たちは欺かれる存在なのだということ。長井真理さんの考察によって、自分もまた欺かれていたことに気づき、改めてデカルトを本気で読見直すことにした。

人の話を聴くということを生業とするものにとって、自分の意識の成り立ち方や構造を知っておくことの重要性は言うまでもない。それよりも、欺かれやすいという性質を持ってしまっているということに気づいていることの重要性といったほうがいいかもしれない。本を読むのも人の話を聴くのも同じことで失敗するものだ。

デカルトを読んだ後ベルクソンからカントへと進むことで、私のいままでの近代における哲学のイメージを覆すことになる。

2020.5.24 am10:19

 

 

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