再開、再考、再構築、13日目

頑なに夜型だった私が、朝型に変わったのは、カントを読むためだったことは前回書いた。今日はいよいよこのタイトルの目的、書くことが始まったことについて書いていきたい。

朝型になったことで、私はさらなる満足感を覚えていた。それはそうだろう、あんなにやろうと思っていてできなかったことが一気に実現したのある。しかも、それは、そう簡単には元に戻らないだろうという確信があった。ここで分けておきたいことがある、それまでも少しずつ朝早く起きてオフィスに行くようにはなっていた。では、私の中で朝型に変わったと思えることの境界はどこにあるといえるだろう。それは、夜に充てていたことを朝に持ってこようと思ったときからであり、時間も5時に起きるようになった時からだ。それまでは早くても6時ぐらいでオフィスにつくのは8時だと早い方だった。5時起きが始まってからは6時台にオフィスに来るようになった。そしてその3日後には4時台に起き、5時台にオフィスに来るようになった。

それからしばらくして気づいたことがある。それは、朝の時間の流れが非常にゆっくりに感じられるということだ。これは私自身がゆったり過ごしているという意味ではない。私自身は他の時間と同じように過ごしているのに気が付いたらあまり時間が経っていないということだ。何か時間が止まっているように感じることもある。特にそれを感じたのは、書見台の前に置くパソコンデスクが届いたので、それを朝オフィスにきてすぐに組み立て始めた時のことだ。箱から出して説明書を見ながら慎重に組み立てていったので、自分ではかなり時間が経っているように感じていた。今日はこれに時間を使っているので、いつも朝の時間にしていることをある程度あきらめないといけないなと思いながら組立てていた。朝の日課になりつつあることたちを休むのは非常に残念な気持ちもあったので、イライしそうになる気分に折り合いをつけていた。やっと完成し、置き場所をいろいろ変えてみては一番しくりくる場所に落ち着くまでにも時間がかかったように思えていた。気持ち的にはもう朝の時間はほとんどなくなっているだろうと恐る恐る時計を見ると、なんとまだ7時くらいだったので非常に驚いた。これなら少し休憩して本を読む時間もまだまだたっぷりある。狐につままれたような気分でその日の朝を過ごした。実はこの日はこの後何度も同じ気分を味わった。本を読みながら、ふと時計を見るたび、自分の中で時間が経っている感覚より大幅に時間の経つスピードが遅かった。時間がゆったり流れるとゆうのはこういうことである。まるで汲んでも汲んでも次々にあふれてくる泉のような感覚もした。

だが、まだこの時も書くということは始まっていない。それどころか、私の意識の中に書くということの片鱗も現れていなかった。その時の私は、カントの読書ができるというだけで満足していた。

そういう朝型の生活が1週間ほどだったころ、岸見先生と話す機会があり、その時に私の状況も尋ねてくださるので、最近の朝型生活への変化の話をした。岸見先生はそれを聞いてある一冊の本を紹介してくださった。それは、岸見先生にしては思いがけない題名で、最初は私も「へー!」という感じだった。なぜ先生がこの本を私に紹介してくれたかというと、この中にカントも出てきて、その彼のエピソードも面白いのと、そこに紹介されている人たちの習慣が朝型の人が多いという理由から思ついてくださったようだ。その本の題名は『天才たちの日課』 というもので、166名の有名な作家やアーティストたちの日課がエピソードとともに紹介されているというもの。朝型の人がたくさんのっているということころで、共感するところがたくさんありそうだと思った私は早速取り寄せて読み始めた。

そこには様々なアーティストの様々な日課が紹介されており、みんな必ずしも朝型というっわけではないし、お酒やドラッグなどを常習している人のことも載っていたが、みんなに共通しているのは、クリエイティブな時間のためにあらゆることを試し創意工夫をしている痛々しいほどの姿だった。天才といわれるアーティストたちは、気まぐれな創造力をいかに自分にとって効率的に効果的に生み出すかに最新の注意を払っているように見えた。そこで私はクリエイティブという言葉を再認識した。クリエイティブとは生み出すという時間なのだと。その言葉の意味はそうなのだから当たり前といえば当たり前なのだが、私はその本の中に出てくる人たちの何かを生み出すことに苦悩している姿からやっとその本当の意味がどういうことかを学んだ。そして、ふと自分を振り返ってみた。それまで私の中にはもっと大きな捉え方でのクリエイティブで、読書もそのような時間に入っていた。その本を読み始めた初めは私も彼らと同じようなクリエイティブな時間を過ごしていると思い込んでいたのだ。でも、今やそれはクリエイティブな時間でもなんでもない、他人の創り出したものに単に触れているだけで、自分で何かを生み出しているわけではない。では、私は一体どんなクリエイティブな時間を持っているだろう?なんとその答えはゼロだ。私は自分で創り出していないし、もっと言えば、自分の中で生まれたものを形にしていないのだ。

その瞬間、「書かなければ」という言葉が私の前に立ち現れたような気がした。そして同時にどうやって書こうか?という問いが浮かんだ。私の中で一番書きやすい媒体はスマホのメモだった。でも今からやろうとしているのは、それで書くことではない。しばらく寄り道をしていた万年筆は適していないことは証明できていた。万年筆で書くのは心地よいのだが、私の考えを文章にしていく時にあまりにもまどろっこしいのである。文字を書くスピードにもそれを感じるし、漢字も思い出せないことにイライラするし、急いで書いたものは、後で読み返したときにほとんどなにを書いてあったか判別不可能だということがその時も感じるので、書いていても不毛な気分しかない。ただ垂れ流しているだけで形作っているという感覚がまるで持てないのだ。それでは何で書くかといえば、やはりパソコンということになる。新しいパソコンが欲しいと思った。仕事用のとは何としても分けたいと思った。それは、このホームページを作ろうと思った理由とほぼ同じだろう。仕事のものが混じっていると、どうしてもそれようの文章になってしまうのだ。自分の書きたいことより、読み手のためのものという意識が自然に働いてしまう。仕事と関連付けるという私の得意分野が勝手に発動して「それらしい」ことを書いてしまうであろうことはありありと想像できた。それではクリエイティブとは言えない。

ネットで執筆に適したパソコンで検索してみるとThinkpadというパソコンを勧めている記事がたくさん出てきた。とりあえず、その情報収集をし始めたことで、少し納得した私は、今持っているパソコンで書き始めた。今書いているタイトルの第1日目の文章を。

 

2020.6.7 am 8:38

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