時間とエネルギー

書くことが始まって、しかも朝の時間にそれをすることになってふと気づいたことがある。前回、朝の時間の長さについて書いたのだか、さらにその質的な違いを感じ始めたのだ。それは、朝歩いている時に気づいた。朝の時間は広がっていくエネルギーだと。それに引き換え、夕方は収束のエネルギーだ。このイメージは私独自のものではない。私がこのイメージを持ったのは、サッフォーの詩の影響であることは間違いないだろう。サッフォーの詩を引用してみる。

夕星(ゆうづつ)

夕星よ、おんみは、四方へと

かがやく曙光(あけぼの)が散らしたものを、

みな、もとへつれかえす。

ひつじをかえし、やぎをかえし、

母のむねに子をかえす。

沓掛良彦『サッフォー詩と生涯』水声社 より

この詩には、ギリシア語の入門書に紹介してあったので出会った。この詩は私にとって衝撃だった。ここには悠久の時の流れの中で延々と営まれてきた命の活動そのものを感じることができる。朝が来て活動をはじめ、夜になって家に帰るという。この習性は動物にも言えることだが、ここに表現されているのは人間の生活の営みの方だろう。初めて読んだ時は、そのとてつもない大きな視点にただただ圧倒されるのみだった。とても女性の視点とは思えないほどのスケールを感じたのだ。それは、私にとって、今まで全く見えてなかったところを照らし、太古の昔から存在し、ずっと続いている時間の存在の事実を初めて本当の意味で突きつけた。それは、私の時間の捉え方をその量的な存在から一気にエネルギーという質的な存在に変えてしまったのだ。

でも、この詩に出会ったすぐの私は、まだ星と空全体の色との対比、二つのトワイライトの時間の質の違い(即ち夜明け前と黄昏の時の微妙な色の違い)に興味を持つところでとどまっていた。そこに、朝型になり、朝の時間の散らしていくエネルギーを体験することになって、やっと一番星と曙光の対比となる。この対比は私にとって象徴的だ。そのエネルギーの拡散と収束はまるで呼吸のようだ。拡散のエネルギーはまた新しいことに向かっていくエネルギーであり、創造的なエネルギーである。それはすなわち、生み出す時間なのだ。

朝の清々しさは皆の知るところだろう。でもそれを発散していくエネルギーとたとえたのはサッフォーが初めてではないだろうか。私は彼女からのアンテナでそれをキャッチすることができたのである。

 

2020.6.8 am9:33

 

Follow me!