時間についての単なる思いつき

時間についての面白いアイデアが浮かんだので、思いつきの断片として留めておこう。もしかしたら、ありきたりで馬鹿馬鹿しいものかもしれないが、その思いつきとは、時間は単に人類がその便宜上仕方なくはかり始めただけで、本当は今私たちが捉えているような性質のものではないのかもしれないということだ。私たちが生きていく中で、計測的な時間が必要なのは、実は他者と出会う必要があるときだけなのではないかと思った。時間の概念はもはやありとあらゆるところのあふれていて、当たり前に常に存在するものとして私たちの意識にある。私たちが社会の中で共通認識を持っておく必要があるのでそれを使い始めただけで、もしかしたら、人類が考えている最大の間違いが時間なのかもしれない。ベルクソンだったか、人間は結果的に起こったことでしか認識できないといっていた。時間もそうなのかもしれない。ベルクソンを全部読んでいないので、もしかしたら彼も時間についてこのようなことを書いているのかもしれない。やはり彼の著作をしっかり読んで学ばなければならないだろうが、今は自分の考えとしていったん書いておこう。

私たちが時間の概念が必要なのは、実際他者と関わらなければならない時だけなのではないかと思ったのと、記録のためなのではないかと思った。他者と関わるのは、一対一から、社会全体、さらには変化や動きのプロセスを共有したり、自分の中で記憶するためのツールとして。でも、どうだろう?物差しがその長さそのものではないように、時間も時間そのものという存在としてはないのではないだろうか?存在そのものを規定するためにいったん定めた長さという概念も、存在そのものを表すわけではない。しかし、時間は、その存在を私たちの意識の中で、時間そのものとして存在するように確立してしまっているように感じる。物質は目見えるが。時間は目に見えない。その見えないものをあると思っているほうが間違いなのか、見えないけれど存在を知った人類がすごいのか、本当のところはっわからないが、こうも考えられる。それは、存在するものの動きやその質の変化があるだけで、結果的にそれを時間で表しているだけなのではないかと。未来を想定する能力は私たちホモサピエンスに与えられ、生き延びるために非常な能力だったとどこかで読んだことがある。それを、最初に時間の流れがあると勝手に想定し、その中でどうしようもない過去と現在と未来のラインを勝手に作ってしまったのではないだろうか。本当はないものをあるように感じて、それをすべての物差しにしたことで、私たちは自ら時間のラインという2次元の中にとじこもったのではないか。物質と変化と動きが作り出したものを結果的に認識し、それが最初にあるものだと規定したのではないのだろうか。もしこのように考えるなら、やはり端的に未来はないといえる。過去もそれは変化のプロセスでしかない。時間の流れというものも、川の流れを見てそれを時間のメタファーで表すことで、時間を一本のラインのようにイメージして、それを支配しようとしてきたのではなかったのか。しかし、自分が支配しようとしたその道具に今度は自らがつかまり、勝手に苦しみを感じているのではないだろうか。ただ、だからといって、時間のようなものから完全に独立して存在することはできないであろう。今度は、存在の変化や動きそのもののうねりの中に身を置くことになる。しかし、その方が、いま私たちが持っている変化そのものに対する認識は変わるのかもしれない。変化を嫌うのが人間だが、変化そのものを時間のせいにしてきていなかったか。もしかしたら、執着を作っていたのは時間というを信じたせいではなかったのか。逆に、変化そのものを受け入れるより、時間というクッションで和らげる方が、その刻々と変わっていく無慈悲に耐えられるからだったのか。動き、に速さの概念が出てきたのは、どちらが先だったのだろう?時間という物差しを、私たちはなぜ洋服を計るメジャーほどのものとしてあつかえないのであろか。時計の時刻になぜ全人生まで計らせてしまうのか。

ここまで考えてみて、しばらく寝かしてみよう。そして、これからは自分の腕時計を、他者と出会うための待ち合わせのための道具として、自分の足のサイズを表す長さほどのものとして、捉えて過ごしてみたらどなるのか。しばらく試してみよう。何か違うものが見えてくるかもしれない。

 

2020.6.12 am 8:24

 

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