Boundless drop 無限の一滴という在り方

可能性を見つける研究員としては、それをする時の在り方について考えてみようと思う。

ここでいう可能性とは、理想の未来に向かうためにできるだけ広いところを見て方法を考えるための可能性であって、既存の枠のなかで他をうらやんで今の自分の境遇を嘆くために居続けるための可能性とは違う。たとえば、「もう少しかっこよく生まれてきていれば…だったのに…」「もっとお金があったら…できたのに」「もっと若かったら…こんなことしてない」など。後に続く言葉が、過去や「だから~できない」のような言葉が続く場合の可能。もしそのような可能性のなかに居続けたい人は気のすむまでどうぞ。ここでいう可能性とは、同じas if の質問をするにしても、「もし今十分な資金があったら何をしますか?」「もし、たっぷり時間があったら?」のような質問に、うっかり答えてしまった時に出てくるような、普段は心の奥にしまいこんで、絶対思い出さないように決心しているような、その人自身の中にしまい込んである真の欲求を 実現させるために光を当てていく可能性のことである。そして、欲求といっても、ここでは何も生理的な快楽や娯楽的な一時的に心を満たすための欲求を言っているのではない。そのようなものはただの代替えであり、それがなくなったら、直ちに他の欲求が湧いてくるだろう。真の欲求とは、その人にしか感じえない価値や満足を与えるものであり。オリジナルなもので、もはやそれに気づいてしまったら向かわずにはいられない強烈な憧れを含むものであろう。そしてまた誤解が生じないために言うと、強烈な憧れというと、ものすごくきらびやかで、冒険的なものをイメージしてしまうかもしれないが、それは例えば「穏やかな平安な心の状態」を求める人にも同じように言えることだということ。そして、さらに言えば「穏やかさ」にもそれぞれの捉え方や価値感があって、何一つ同じ意味で語られる「穏やかさ」はないということだと思う。

強烈な憧れである真の欲求は、それをあまりにも強く欲するので、次の瞬間湧いてくるのは途方に暮れる感覚だったり無力感、失望感かもしれない。希望が持てないとそれは、自分を苦しめる悪魔のように襲い掛かってくるし、手に入らなかったら悲しくなることは分かりすぎるぐらい分かっているからだ。もう一つ考えられるのは、脳が体力温存のために、あまり考えなくてもよい気を紛らわせる代替えばかりをすすめてくることもあるだろうということ。さきほども書いたが、「それに気づいたらもはや目を背けることができないほどの強烈なあこがれ」は、次の瞬間、きっと脳は自分に過酷な労働を強いられるのがわかっているのだ。その労働というのは、あらゆる可能性のなかから達成可能なターゲットをしぼり、それに向かうための方法を考えることだが、新しいことばかりを考えなければならないことが予測されたらそれをやりたくないと感じるのは当然だろう。気の遠くなるような検証作業をたった一人ですることをイメージしてもらうと脳に共感できるのではないだろうか。だから普段は、そのような強烈な憧れでもある真の欲求を普段は絶対に思い出さないよう、考えないよう決心しているかもしれない。

でも、どうだろう。私たちは何のために生まれ、何のために生きて、そしてどこに向かうのだろうと自分自身に問いかけたとき、どんな答えが返ってくるだろう?それは人類の歴史で多くの哲学者、科学者、宗教者が人間にて考えてきても答えはでていない問だが、答えはきっと出ないとしても、考え始めることが大切なのであり、考え続けていくことが生きていくことなのではないだろうか。しかも、それは、誰のためでもなく自分のためであり、自分にしか感じられないオリジナルな欲求を最後に刈り取るのは自分でしかないのだから。

そこで、ほかでもない自分自身が人生の最後に刈り取るものを考えるためには、あらゆる可能性からそれを見ていきたい。そして、それは無限の可能性でなければならないだろう。無限でないなら有限ということになる。有限だとしたら、それは誰が決めたのかということになるだろう。それは、とても傲慢な姿に見える。それが他人ではなく自分だとしても。

私自身、無限という言葉を聴くと、果てしなく広がった宇宙にポツンと投げ込まれた感覚を感じる。孤独であり、得体のしれない恐怖も感じる。レバノンの詩人であり画家でもあったカーリールジブラーンという人の有名な詩『The Prophet』(日本語訳で預言者)の一節に、Boundless drop to a boundless ocean というという言葉がある。広大な無限の海の中の小さな一滴として のように訳せるらしいのだが、これを英語のまま、無限の一滴。それも、「無限の可能性をもったちいさな一滴(ひとしずく)」という意味に読んでみたらどうだろうか。大きな海のなかで、強烈な個(オリジナリティ)をもった一滴でもあり。海水に混ざりあってただ波の動きを作っている一部でもある。その一滴一滴(ひとしずくひとしずく)が無限の可能性を秘めているというイメージ。

全部合わさると、なんと大きな可能性であることか。

そのようなひとしずくとして、わたしも在りたい、そのような在り方で可能性を考えていきたいと思っている。

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