再開、再考、再構築、5日目

本棚が整った私は、しばらくその環境に浸った。ちょうど新しいジャンルの本に興味が出ていたころだ。仏教哲学から命の科学を見たくなり、訳も分からずに物理学の本を漁っていたころ。物理学の本は、本棚の位置的にはオフィスの入り口近くの棚の場所を占めていた。そのころはまだ福ちゃんも生きていたので物理のおすすめ本などを教えてもらっていた(本の置き場所は、私にとってかなり意味があることは以前のべた通りだ)

物理は福ちゃんの専門分野でもあった。そのころの私の思索上の興味は命と組織と個人。物理学に興味を持ったのは、重力を感じながら見たり聞いたりするときの効果を探求していて思いついた物質の世界の理解を深めたいと思ったこと(このことはグラビティセンスセオリーの項で考えたい)。よく言われる「魂」と物質としての「身体」、私はそれよりもその身体を動かしている「命」という不思議に切り込んでいきたいと思っていた。かけがえのないいま生きている命という崇高。それと同時に、それはどろどろとした血生臭いものでもある。血生臭いものの中で息づいている不思議で美しく当たり前のような奇跡。それを自然の摂理と言ってしまえばそうなのだが。まあそんなことで頭がいっぱいになっていた時期なのである。折しもそんな中福ちゃんは亡くなってしまった。

そんな私の興味が、また臨床心理哲学(木村敏先生は臨床哲学といわれている)に戻ってきたのはなぜだったのか。コーチングの聴く姿勢を考えていた時に能動的と受動的、「~する」「される」、「取りに行く」「受け取る」、の関係から、そのどちらでもない「中動」という言葉がおもいだされたからだ。中動といえば、國分巧一郎氏の『中動態の世界』という本があるが、そのまえに長井真理さんが学会で発表されており、木村敏氏がそれを紹介していた。私はそれで一度途中で読むのをやめていた國分氏の本を読んでみた。しかし、その中で取り上げられている視点は私の考えたいところとずれていたので、改めて長井真理さんの発表された研究文献を探し始めた。木村敏先生の本でそのことを知ったのは3年ほど前になるだろうか。木村氏の最初の印象は、岸見一郎先生に教えていただいたヴァイツゼッカーの『ゲシュタルトイス』の翻訳をされている方で、その本の読書会をドイツ語でされているということのみ。しかし、彼の著書に触れて驚愕してしまった。そこに展開されていたのは、研究というより、まさに哲学的探究だったからだ。日本にもこのような人がいたのかとおどろいた。もちろん日本にはもっと哲学の専門家の素晴らしいかたがいるのはしっているが、木村氏は精神医学の最前線にいながら臨床という場所から真っ向勝負していたからだ。その木村氏が絶賛していた長井真理さんというまだ若い研究者のことをなかば羨望というきもちで眺めていた。そのころも彼女の論文が本になっていないかを探したはずである。が見当たらないので、仕方なく学会研究の全体的な論文集の中の一つにそれを見つけ、それしか一般のものが目にすることはできないものとあきらめていた。でも今回あらためて、木村敏氏の本を読みなおしてみたら、なんと木村氏自身が編集した長井真理さんの本があることに気づいた。いったい私は何をみていたのか。長井真理さんは三十代の若さでこの世を去ってしまった方。その才能は大変惜しまれ、特に木村敏氏は彼女の名前を冠した記念学会まで開いている。それほどの女性なのである。木村氏が編んだ本は師として、同僚として、人として、彼女への尊敬と愛情に満ちている。私はその本の存在を知り、すでに絶版だったので古書を購入した。

私がいま書き始めたことのもう一つのきっかけはこの本の中にもある。本が届いたのは私の54歳の誕生日の前日だった。

 

2020.5.21.am7:53書く

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