再考、時間と質

昨日のブログで時間と質のことについて考えたことを書いたが、その続きというより、いったんそのことを疑っておくのも必要だと思うので、今日はそのことについて考えておこうと思う。

昨日書いた中で最後に答えを手にしたと書いたが、ここについて自分の中で意識しておかなければならないことがある。それは、答えと思うとそれだけの意味で捉えてしまうので、それ以上のものが入ってくる余地がなくなってしまうし、ただ一つのことで言い表すことは不可能なので、間違った捉え方を自分の中に残してしまうからだ。あそこで私が答えを得たと思ったのは、あくまでも3年前の自分が欲していたもの、「時間を永遠にあるように感じていた小学生の頃の感覚を取り戻すためにはどうしたらいいか」ということの一つの方法を得たに過ぎない。ここを改めてはっきりさせておかないと私の中で、時間はエネルギーてきなものとしての一面性でしか考えなくなるかもしれない。エネルギー的にとらえることもできることに気づき、そのことを自分の子供のころの感覚につなげて考えてみただけである。

更に、もう一つ、昨日書いたことの中で気になることがあった。質的感覚として紹介した、子供のころの私の価値のつけ方、「本物か偽物か、天然か人工か、丁寧か粗雑か、吟味されているか、顧みられていないか、大事にされるのか使い捨てにされるのか、そのことを全部踏まえたうえでの快、不快。」これは、あの頃の私の感覚をそのまま映し出してはいない。多くのものは今の私による意味づけだ。でも、すべてがそうかといえばそうでもない。でも、まずはただ心地よさとしての快、不快、があっただろう。その心地よさは、その商品を使う側にとって心地よいものを追求したものが持つ当然の性能が入っている。粗雑なものはその追求を省いているものであり、ただ使えればよいというものと、その値段に折り合いをつけられるギリギリまでは手をかけているというところだ。商品の価値の中には、便利さ、使いやすさ、使い心地、見た目の心地よさ、性能のよさ、、個人とその時代の付加価値などが考えられる。それを値段という量的な価値で換算するので高いイコール質がいいという捉え方が定着する。幼い私がその概念から離れていたかといえば疑わしい。なぜなら、私の父は晩酌の時に一緒に食卓についている私と弟に、家具の話やお客さんとのやり取り、今までの仕事の中で経験したことを毎晩のように話していたからだ。私はその話を聞くのが大好きだった。その話の中で、おそらく私の中に父の商品への価値観が知らず知らずに入り込んでいてもおかしくない。そうなのだ、私がここで気になることというのは、質的な感覚といえどもその価値観は物質的なもの純粋なものではなく、かなり大人の価値観や社会の価値観、人間の価値観に影響を受けている。岸見先生がよく注意される、生産性で見ている価値観がここにも含まれているのではないかということだ。生産性で価値があるというのは、役に立つかどうか、それも経済活動的に価値があるかどうかということ。今の資本主義社会で生きてきた私たちは、この価値観からどうやっても逃げることはできないのではないかと思えてくる。それはあまりにも当たり前になってしまった物差しで、もはや自分がそれで計っているということをも忘れてしまうぐらい飼いならされてしまっているからだ。人間の脳は飼いならすのが本当にうまい。それは、いわゆる飴と鞭的なものの効果を知り尽くしているからなのだろう。心地よさという飴と、恐怖という鞭でひとたび手に入れた物差しにこだわらせ、ほかのことを考えないようにさせる。本質的なものの考察は骨が折れるという感覚を持たせて、そこまでのものにヴェールを被せ、前提を作っていることに気づかないようにさせる。

やはり書くことは大切だ、表現することによって、このような懐疑が出てくる。この子供のころの質的な感覚については、3年前思いついてからずっと自分の中で温めてきたことだ。思いがけず、時間の感覚を考えていた時につながったと思い表現する場を得たが、いったん白紙に戻して考え直さなければならないだろう。白紙に戻すといっても、それは、すべてが間違いと考えることではない。その中にも真実はあるのだ。それをいかに抽出するか。使える物差しを考えるのではなく、測る前のもの、質そのものについてかんがえていけるといいのかもしれない。一つの物差しを見つけると、それに飛びついて、しばらくそれに固執し飴を得たもののようにうっとりと舐め続ける。注意すべきことはそうなっている自分に気づくことだろう。

私はいったい何のために書きたいのか。何に向かっているのか。それは正直わからない。でも、しなければならないことは、私の中に出てきていることを表現し続けることだということはたしかだ。誰の役にも立たなくても、それをすることが私の生きている意味だと感じられるからだ。逆に、何の役にも立たないからと言ってずっと表現することをしてこなかったのだから、これも生産的な価値観で生きてきた証でもある。

書くというと、本にするためですか?と聞かれる。少なくとも私個人の中にはそのような欲求はない。それなら、なぜ公開するのかと言われれば、それは刺激のためだろう。表現するためには、自分一人で書き溜めていても完成したとは言えない。実際の評価もそれほど必要ではない。必要なのは、公開することで、自分が他者の存在を感じることなのだ。それは、私にもっと考えさせ、疑わさせ、言い訳させ、さらに表現させようとさせてくれる。他者の存在はその意味で表現するものには絶対的に必要なものだろう。

今、浮かんでいるもう一つの懐疑は、時間というものの捉かえ方。前回書いた、人類は時間を仕方なしにいったん計る方法をとっただけであるという考えが気に入っている。時間を計る、時間が経過する、時間に前後がある、時間の流れ、など、過去からの言葉によっていろんなメタファーで表現される時間というものを、それにとらわれない捉え方ができないかを考えてみたいと思う。

私の考えなど、本当にとるに足らないものだということはわきまえている。別にものすごい発見をしたいわけではない。ただ、自分の考えたことをこのように文章につづってみて、その中でさらに発見が起こることが今は楽しいと感じている。表現するのは自分に刺激を与えることでもある。あるコーチ仲間の気づきだが、話をしている時、それを一番聞いているのは自分なのだ。

以上、とりとめのない振り返りと大いなる言い訳 2020.6.10 pm 12:50

Follow me!