再開、再考、再構築、10日目

このブログ再開をを助けた要因の一つに、生活スタイルが変わったことは大きい。それまで夜型だったのが朝型に移行した。いままでどうしてもできなかった朝型スタイルはなぜできるようになったのか。この度私に実際起こったことを使って行動の変化とモチベーションの出現の要因について考えてみたい。これは、あくまでも自分を振り返って経験的見地から考えるので当然正しくない。でもあえて断言的に表現してみようと思う。その目的は自分自身の言葉の責任を感じるためだ。曖昧に表現するのと、正しく表現するのは違うと思っているが、必要以上にそれを多用するとき、それは責任逃れ的な要素が強くなっているだろう。曖昧な表現はそれ自体が責任逃れ的要素がある。それは、事実や正らしさを出すためには必要だが、ここでの目的は正しいことを伝えることではなく、ただ自分の考えを深めていくことが目的なので、責任逃れ的な表現は邪魔になる。断言した方が気持ち悪さとして自分の中に残るので、後々まで検証しようとするだろう。ここではその効果の方を優先したい。それなので、ここからは私以外の人がもし読んだ時のためにはっきりと正しくはない内容だと断っておかなければならない。それなら公開しなければいいではないかといわれそうだが、生来の怠け者の私は、公開しないものにはその必要性を感じないので、再度考え直そうとしなくなることは目に見えている。そうなると、こまったことに、私の中にこの考えが正しいものとして居座ってしまうのだ。そのような理由なので、ここで私が偉そうに断言することを許してほしい。

では、初めの内容に戻って、行動や変化を起こす要因となるものについての重要なポイントとして考えられることをいくつか挙げていきたい。具体的な事象に当てはめていくのはまた後の作業にしようと思う。

まず一つ目は、行動や変化は、ただ一つの要因では決して変化は起こらないということ。どんなことも、ただ一つのきっかけだけで行動が起こるということは決してない。でも、意識は最後に起こったこと、それも目立つことをその要因だと決めておきたくなる。しかし、その中での事実は、なんでもその要因を決めておきたくなってしまうということのみで、その他のことはすべて思いつきでしかない。ここで重要なのは、それがきっかけだったことが事実なのではなく、それしかおもいつかないので、それを要因に決めたということが事実なのである。人の変化や行動の要因は、本当はずっと折り重なるように起こり続けている。あらゆることは変化し続けている。人はそのことに気づかず、自分が気づいた時だけ変化が起きたという。

二つ目は、起こそうと思う行動や変化に自身の欲求が叶う可能性が目的として意味づけができるかどうかということ。この欲求は、生理的、傾向的欲求と、価値観的欲求が考えられる。どちらも本人が知らず知らずのうちに求めているので、何もしていないつもりでも、その方向に向かっていると思ってもよいいだろう。ただ、価値観的欲求は外因的な要因がかなり絡んでくるので、先に手っ取り早くかなえられるのは生理的傾向的欲求を叶えようとしてしまう。これは代替えでも我慢できる欲求だ。価値観的欲求が満たされないのをこの生理的傾向的欲求で満たそうとする。

三つ目は、それが自分でもできそうだと思えるかどうか。現実的な実現可能性を本当に自分の中で思い描けるかということ。それは、自分の能力の限界が、社会的に可能かどうか、物質的に可能かどうかなどということ。実現可能かどうかを感じられるというのは非常に重要だ。なぜなら、それがないということは絶望しているということだから。だから人は本当の意味での絶望を感じないためにそれを軽くあきらめ、その優先順位をさほど気にならないところまで引き下げる方を選ぶのだろう。優先順位を下げることは悪いことではない。それは熟成という部屋でもあるのだから。やがて上にも上げたほかの要因や能力的要因、環境的要因がそろったときに最上位に浮上してくることになる。では、そうした中で、ある時人は実現可能なものを感じたとする。でもその中に厄介な要因が絡んでくることがある。それは味方にもなれば敵にもなる他者の存在だ。例えば誰か実際に実現実行した人がいることで実現可能性を感じられる時があると思えば、逆にそのことが邪魔をすることがあるのだ。前者は人間そのものの能力に対する信頼であり、後者は人間に対する競争が働いてる。前者が起こっている方が本当の意味での行動や変化は起こるだろう。前者は自分の中だけでコントロール可能であり、後者はその刺激を他社に依存しているからである。こう考えてもいいだろう。信頼の方は、たとえそれが他者を必要とすることであったtおしても、信じようとすることは自分だけでも決められる。それに引き換え、競争の方は、同じ他者との関わりでも、目的は自分が他者より優れていなければならず、それを相手や周りにわからせて証明しなければ成立しない。前者は価値観的欲求であり、後者は生理的傾向的欲求である。他者から受ける意味については、前者は励ましという刺激であり、後者は攻撃という刺激である。どちらも刺激ではあるので、行動や変化への効果はある。しかし、後者は自身の価値的欲求が満たされないので、傾向的生理的欲求を満たしたとしても虚しさが残る。

価値観的欲求は、それに向かっている時は傾向的欲求を意識的に抑えることができるが、生理的傾向的欲求の方に向かっているときは、価値的欲求は無視されている。人は価値的欲求に向かっているつもりでも、傾向的生理的欲求はいつもその方向性を変えるのは容易なので、気が付いたら価値的欲求の方向とは逆の方向に行っているのだ。また、人は初めのうちは生理的傾向的欲求によって成長するが、ある時からその質を深めなければ満たされなくなってくる。その時初めて自分の生理的傾向的欲求を抑えて価値観的欲求に向かえるのかもしれない。そして、この時の変化こそが本当の意味での変化、それはまさに変容といえるものだろう。

ここまで書いてきて、最後は曖昧な表記が出てきてしまったが、このことが出てきたのは私にとって初めての発見である。

今後さらに考えていきたい。

四つ目の行動の要因としては、さらに外部要因も大きな効果がある。それについては次回書いていこうと思う。あらためて思うのは、私たちは外部からの刺激なしでは何も考えられないし自分についても気づくことはできないのだろう。すなわち社会的な存在なのである。

 

2020.5.27 am9:24

 

 

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